『歴史の教訓』

この時期ですので、歴史に学ぼうと思って読んでみました。

兼原 信克|歴史の教訓―「失敗の本質」と国家戦略|新潮新書|2020

1.近代日本から学ぶ教訓

昭和前期の日本軍を、総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼務した東条でさえ組み伏せることのできないビヒモス(怪物)に育て上げた原因は、この「統帥権の独立」であった。

このように、対中戦争、そしてそれに続く太平洋戦争の直接的な引き金になったのは、「統帥権の独立」という概念にあったと筆者は指摘します。

実際の有事の際、文民出身の政治指導者が死地に赴く二十数万の精鋭の自衛官を戦略的に指導できるだろうか。国民と国家の安全確保を全うすることが、本当に可能 なのか。
 有事においてその重責を担うのが、総理の主宰する国家安全保障会議である。総理が危機に際して国家指導全体を担う「脳」、自衛隊が実際に体を動かす「筋肉」、政府の各省庁がもろもろの「内臓」だとすれば、その結節点にある国家安全保障会議は神経を束ね繫ぐ「脊椎」である。

教訓という意味では、筆者は「国家安全保障会議」の創設に関わった方ですが、いくら総理大臣が自衛隊のトップに位置していたとしても、実際に運用できなければ、ただのお飾りになってしまう、という危機意識が表れています。

2.外交戦略の重要性

国家安全保障戦略では最初に外交戦略が来る。外交戦略とは、客観的に軍事、経済、政治的な力の要素を分析評価して、国家間の力関係を考え、そのバランスを正確に把握しつつ、常に勝ち組に入り込み、自らの国力に応じた利益を主張し、同時に他国との共通利益の増進を考えて、敵を孤立させ、或いは取り込み、未然に紛争の芽を摘むための戦略である。
 これに対して軍事戦略は、最悪事態に関わるシナリオを複数予測し、万が一の場合にはどの国と戦争を構える恐れが最も高いかを検討し、仮想敵国に応じてシナリオを考え、作戦の概要を構想するものである。

戦前の日本には、基本とすべき外交戦略が軽視されていたと指摘します。次第に、軍事戦略に追従する形での中身のない外交戦略が考えられ、戦術的には優れた作戦であるものの、戦略的には全く意味のない軍事行動を次第に起こすようになります。

外交戦略が軽視された状況は戦後も長く続き、基本的には外交戦略はアメリカの方針と合わせることで成り立ってきました。

最近になって「自由で開かれたインド太平洋地域の構築」というようなフレーズが聞かれるようになりましたが、日本が独立して外交戦略をようやく考えるようになったと指摘します。

3.シーレーンの重要性

個人的には、一番の発見でした。シーレーンについて、私は航路?というような認識しかなかったのですが、これは誤りでした。

日本には日本が海運に依存して生きているということを解っている人が少ない。海運は日本の命運を握っている。シーレーンというが、海に線が引いてあるわけではない。日本のシーレーンとは、大洋に数千キロにわたって数珠繋ぎになっている日本商船隊のことを言うのである。

イメージとしては、工場におけるベルトコンベアに近い感じでしょうか。確かに、日々日本に物資が届かなければ、経済は回りませんし、仮にどこか地域を迂回しないといけなくなると、その分シーレーンが長くなり、商船隊を構築する船の数も増やさなければなりません。

この重要性に日本もようやく気付き、自衛隊による海外の海賊対処等での派遣が行われるようになったのです。

ちなみに結果論ではありますが、戦前の日本は大陸への植民地支配に乗り出すのではなく、海洋国家として発展するという選択肢があったのではないかと指摘します。戦後の日本は、明治初期と同程度の領土しか保有していませんが、一時は世界2位の経済大国にまで発展することができました。

Amazonのレビューなんかを見ていると分かる通り、政治的主張やイデオロギーについては、色々な考えがあると思います。だからこそ、ニュートラルに物事をとらえて、この本からも教訓を得るという姿勢が重要だと、改めて思いました。

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